後藤浩輝さんとは?知らない人も分かる情報

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「後藤浩輝さんがなぜ亡くなったのか知りたい」

後藤浩輝さんは日本の競馬騎手で、JRAで活躍した神奈川県生まれの日本を代表する1人です。
後藤浩輝さんは神奈川県の相模原市で生まれ、少年時代は空手と体操をしていました。
この時の経験が反射神経を磨き、後に騎手の活躍を支えるスキルになったといえます。
本人は著書で判断力も身についたと述べているので、少年時代の経験が大人になってからも役立ったのは間違いないでしょう。

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幼少期の後藤浩輝さん

母親は現実的な人物で、手に職をつける現実的な進路を子どもに望んでいましたが、当の本人は平凡なサラリーマンなどになるつもりはなかったようです。
進路を決めなくてはいけなくなった時、好きな料理で活躍できそうなフランス料理の料理人が頭に浮かびました。
それを母親に伝えたところ、母は昔見たドキュメンタリーの競馬学校を勧めました。
本人にとっては想像していなかった提案で、知識どころか興味もありませんでしたが、ダメ元で試験に挑戦したところあっさり合格してしまいます。
そこから本格的に競馬の道に進むことになり、乗馬の経験すらなかった当初は落馬続きでビリでしたが、あるビデオが切っ掛けで意識が変わり、本気で上を目指すようになります。
そのビデオというのは、殿堂入りしているアメリカの騎手、スティーブコーゼンのビデオです。
後藤浩輝さんはこのビデオを見た時のことを振り返り、惚れるほどの感銘を受けたと回想しています。
この惚れるほどのできごとが意識を変え、取り組み方すらも変える切っ掛けとなったわけです。

デビューは1992年

デビューは1992年のことで、初めての騎乗も同年の3月のことでした。
舞台は中山競馬場で、第1競走の16頭立てレースです。
乗った馬はエンシュードラゴンで結果は6着でしたが、まずまずのデビューを飾ったといえるでしょう。
同年にデビューした同期は多く初勝利は最も遅かったものの、後に頭角を現すことになります。
ただ、当初は調教師と折り合いがつかず躓いたり、我慢が求められる日々が続きました。
初勝利は1994年の福島記念のことで、シルクグレイッシュに騎乗して重賞勝利を収めました。
もともとは先輩が騎乗する予定でしたが、落馬により負傷した為、急遽代替で乗ることになった経緯があります。
翌年の1995年にフリーに転向、デビュー4年目で21勝を挙げています。
1996年にはアメリカに武者修行に出て、158戦7勝という圧倒的な成績を残しました。
武者修行の成果は日本に帰ってからも現れており、勝利数は21勝から46勝と倍以上になっています。
更に1998年には1年で63勝と、デビュー前後とはまるで別人のような成長を遂げました。
1999年に寮の後輩に暴行してしまい、不祥事によって4ヶ月の騎乗停止処分を受けました。
このように残念なこともありましたが、処分中に反省と心の入れ替えができたからか、2000年には年間100勝に到達しています。

首の怪我に悩まされる

その後も2002年の中央競馬GIで初勝利、2004年にJRAのGIで勝利、2006年にもGI勝利と勝利を重ねました。
2007年に再びアメリカに出向き、様々なものを吸収して着実に成長を遂げています。
2012年のNHKマイルカップで落馬したころから、首の怪我に悩まされることになります。
最初は頚椎捻挫程度だと思われていましたが、病院の検査で頸椎骨折が疑われ、頸髄損傷の診断が下りました。
落馬の4ヶ月に復帰したものの再び落馬してしまい、第二頸椎骨折と頭蓋骨亀裂骨折の診断を受けて入院となりました。
復帰には1年を要しましたが、ゲストの解説者などで活動していたことから、存在感が薄くなったことはなかったです。
復帰戦では見事に勝利しましたが、2014年にまた落馬で再度頸椎骨折の怪我を負いました。
後藤浩輝さんが引退を考えるほどの怪我でしたが、賢明なリハビリで復帰を果たします。
ところが、2015年のダイヤモンドステークスでも落馬、頸椎ねんざで首の不調に悩むことになります。
それでも諦めずにリハビリやメンテナンスを続け、もう一度活躍する時を夢見て努力を続けました。

自宅の脱衣所で首を吊っている状態で発見される

しかし残念なことに自宅の脱衣所で首を吊っている状態で発見され、復帰することはありませんでした。
ファンが多く騎手仲間からも一目置かれていた後藤浩輝さんの訃報は、多くの人達にショックを与えました。
近親者と競馬関係者で葬儀が執り行われた後、中山競馬場に献花台が設置され、メモリアルセレモニーが開催されています。
惜しまれながら引退することになってしまいましたが、成績は揺るぎないもので活躍の姿は人々の目に焼きついており、記憶に残り続ける騎手となりました。
現役時代は悪目立ちすることもありましたが、実力勝負の厳しい世界で、コネもなしに技術を磨いて自らの道を切り開き、そして活躍したのは確かです。

まとめ

師匠との関係も決して良かったとはいえませんが、慕っていた人が少なくなかったこと、師匠がずっと気にかけていた人物なのも間違いないです。

最終更新日 2025年7月31日 by nieaun